2017年7月1日土曜日

Re: 働き方改革

林田です。
希望のまち東京in東部市民カフェ第154回「東芝問題のその後と、半導体業界の働き方」
▼とき:2017年7月8日(土)午後2時〜4時
http://www.hayariki.net/tobu/

希望のまち東京in東部市民カフェ第154回「東芝問題のその後と、半導体業界の働き方」に向けて思うところを書きます。
第一の「専門性は高いが、会社組織の一部として機能する職種(個人事業主としては成り立たない。)」は普遍性があると考えます。むしろ、ジョブ型の働き方は雇われているからこそ成り立ちます。個人事業主ならば、たとえば事務所の蛍光灯が切れたら、自分で取り替えます。ジョブ型と言っていられません。ジョブ型は雇われている人の特権と言えるでしょう。
故に「文句があるならば起業しろ」は労働が契約関係であることを無視した極論です。起業しにくい点は日本の社会課題ですが、それが改善されても大多数の人々が労働者である点は変わらず、働き方を良くすることは重要な政治課題になります。
雇われているからこそジョブ型が成り立ちますが、昭和の日本型雇用は、その真逆でした。それが会社に無限の忠誠心を求める過労死やブラック企業の背景になっています。これを変えていくことが働き方改革です。このため、ジョブ型にしていくことが望ましいか、日本型雇用のゼネラリストに価値があるかという点が論点になると思います。

第二の「明確な仕事の定義(目標や達成すべき仕様)ができない」という点は考えるところがあります。営業の売り上げのような成果を明確に定義しにくい仕事があることは事実です。この点を否定しませんが、定義するように努力することを目指すべきではないかと考えます。
逆説的ですが、成果主義や目標管理制度は営業の売り上げのような明確な数値以外も評価するために存在します。学習やプロセス改善のように従来評価しにくいところを評価します。
今や派遣労働のように勤務地と勤務先が異なるケースや在宅勤務など上司が直接見ないところで働く形が増えています。このようなケースは成果を定義できなければ評価もできなくなります。
仕事を明確に定義しないと上司の目の届くところにいる人ばかりが評価される不公平な結果になりかねません。現場に出て稼いでいる人が評価されず、本社で上司の下でヌクヌクしている人が評価されることになれば、豊臣政権下の福島正則や加藤清正による石田三成への反発と同じことになります。そのため、定義していくようにしなければならないのではないかと考えます。

第三の「大枠で会社の方針に従うが、日々の仕事は労働時間も含め個人の裁量が大きい。逆に個人の裁量に任せないと仕事が回らない」も普遍性があると考えます。このようなものであるならば個人の裁量を広く認めることが働きやすい環境にすることになります。
この裁量を認めるということは、綺麗事では済まされません。会社全体の視点で見た場合に非合理に見えたとしても、それが各担当のレベルでやり易いものならば、それを尊重します。全体最適よりも部分最適を優先します。単に全体最適の範囲内で裁量を認めるならば、名ばかり店長のような欺瞞になります。この部分最適の優先は「成果主義が導入されて自分の役割しか考えなくなったから駄目になった」という発想と真っ向から対立します。これをどう評価するかが問題です。


■ 林田力 Hayashida Riki
■■ 『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』著者
■■◆ http://www.hayariki.net/

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