2017年7月16日日曜日

Re: 希望のまち東京in東部市民カフェ第150回「新自由主義」その2

新自由主義批判を主軸とすることの第二の課題は、第一の課題と考え方の根底は共通しますが、より身近な問題です。

既に新自由主義が血肉になっている世代にとって新自由主義の否定は現在よりも生きにくい社会になるという点をどのように考えるかです。希望のまち東京in東部市民カフェ第153回「都議選結果」ではプロジェクト別採算の話をしました。

「プロジェクト別採算が当たり前になっている。それが過剰労働から自分を守るストッパーになっている。「プロジェクトが赤字になるから担当外の仕事はできません」「プロジェクトが赤字になるから残業はできません」と言えるためである」
http://www.hayariki.net/tobu/cafe78.html

通俗的な新自由主義批判の言説では、それが絶えざるコスト削減圧力に晒される大変な世界であるかのように喧伝されますが、逆に新自由主義から脱却した方が担当プロジェクトを越えて全社の仕事に責任を持たされ、無限の長時間労働を強いられる危険があります。それが昭和の会社主義でした。

1980年代か90年代に新自由主義という異物が入ってきて、それに苦しめられてきたという感覚の世代にとって、新自由主義を否定することは容易です。しかし、昭和の会社主義に苦しめられている人々にとって新自由主義は福音になります。そのような人々に対して「昔は新自由主義がなかったが、上手く回っていた」と言ったところで響きません。

通俗的な新自由主義批判の言説は私が見聞きする限り、そもそも実態を知らず、「新自由主義では競争に晒されて大変だ」と観念的なステレオタイプにとどまっているように見受けられます。まずは事実認識で共通認識に立つことが必要です。

次に共通認識に立てたとしても、評価の点で昭和の古い体質に辟易している人が共感できるかが問題になります。極論すると「昭和のパワハラは人を育てる大目に見ていいパワハラ、新自由主義的なパワハラは人を潰すパワハラ」という類のダブルスタンダードがあるのではないかと懸念します。

市民カフェでも「80の能力の人に100の仕事をやれと言うのと、120の人に120をやれということは異なる」という議論がなされましたが、私からすると、この種の発想が差別的で恐ろしいことに感じられます。昭和の発想で120ができる人に勝手に決め付けられたならば地獄です。これを合理的区別と正当化する側が逆に排外主義に敏感な傾向があることに矛盾を覚えます。左翼は弱者に寄り添うといいながら、自分達が弱者と定義する人達を助けるだけではないかと感じます。

結論として、個人主義的な側面に恩恵を受けている人々に対して、新自由主義を否定した社会が今よりも生きやすい社会であると提示できるかが課題です。そのような主張が成り立つならば、私も聞いてみたいと思います。

■ 林田力 Hayashida Riki
■■ 『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』著者
■■◆ http://www.hayariki.net/

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